東北STANDARD

カネイリミュージアムショップ

協賛: キヤノンマーケティングジャパン株式会社

岩手県盛岡市

土地が持つ特異性、それをかき消す均質化の波。

八戸の「魚人

金入健雄(株式会社 金入/東北STANDARD 代表/以下、金):
いま、田附さんは私の地元の八戸で漁師を撮る、ということをやってまして。

小岩秀太郎(以下、小):
海の方の漁師?

金:
はい。そうです。八戸は24万人くらいの結構大きい街なんですが、その八戸の中にはあたりまえなんですけど、たくさんの地区があるんですね。田附さんの写真や、小岩さんの活動を見聞きするうちに、八戸というくくりじゃなくって、○○地区、みたいなところに固有の文化がそれぞれ残ってるんだなって言うのを感じるようになって。例えば田附さんが漁師さんの生活や、その暮らしを守るお母さんたちの生業を追いかけているうちに、私が知っていた八戸ってほんの一部で、自分が生まれ育ったところの地域は良く知っているけど、例えば田附さんが追っかけている大久喜っていう岩手寄りの港町のことは良く知らなくて。八戸ってひとくくりにされてても、こんなに多様性があるんだなって。

田附勝(以下、田):
だから、そういうことがこれからは大事だと思うんだよ。地区地区の個性というか。重要性というか。

小:
そうですね、市町村合併はやっぱり進んできているし、学校もどんどんなくなっている。地区ごとのそれぞれのカラーっていうのは無くなってきているですけど、元々はそれぞれの地区にカラーがあって、そういう多様性があるから地域に住んでる人も面白がってたと思うんですよね。

田:
そうそう。

小:
東北にはまだそういうのが残っている。
だから東北は、やっぱり面白い。

田:
そうだよね。それが本当にね、さっき言った多様性のこともあるけど、本当に地区によって全然違うし、その地区自体が多いっていうのもあるよね。海と山で全然違うし、海は海でも細かく割っていくと全然違ってくる。そういう多様性を知りたいのならやっぱり岩手の人は自分の周りのことを知ることが大事なんだろうなって思うんです。

ぽろっと落ちる鹿の角。

金:
ありがとうございます。
それと、気になってたんですけど、この会場に置いてある鹿の角、拾ってきたって聞いたんですけど。

田:
鹿の角、ぽろっと取れるからね。

小:
これ何歳くらいですかね。

なぜか鹿にとても詳しいお客様:
3歳くらいですね。
角って皮膚の塊なんですけど、春になると生え変わるためにぽろっと落ちるんですよ。それを見た鹿は自分で角が落ちたことに驚いて走って逃げちゃうんです。だから、基本的には一本ずつ角が落ちるんです。二本一緒に落ちてることは滅多にないので、二本まとめて見つけることができたらそれはすごいラッキー。

小:
この鹿頭も二本の対になってないと作れないんです。これも基本的には落ちている鹿角を拾ってきて作ります。みんなで角を探して拾ってきて作るんです。この角は8歳のもの。4つに枝分かれしている角じゃないと、鹿踊の角としては使えない。

田:
そうなんだ。

金:
なんで8歳なんですか?

小:
いろいろな説があるんですけど、とにかく8っていう数字が縁起が良いとされているような......。
うーん、もうちょっと勉強しておきますね。

牡鹿半島、金華山。そして志津川という神域。

金:
はい、ありがとうございます。
お客さんの中でおふたりに聞いてみたいことはありますか?

眼鏡をかけたお客様:
私は宮城県出身なんですけど、宮城には牡鹿半島というところがって、そこから船で渡るところに金華山というところがありまして。そこは鹿が神の使いみたいな扱いになっていて、その島の中では鹿を獲ることが禁止されていたり、牡鹿半島の方では環境保護のためもあって鹿を保護していたりします。一方で石巻の駅とかには鹿の肉が売っていて、食文化として鹿が残っている。ぼくも好きで良く買ったりするんですけれども。牡鹿周辺の地域と鹿のつながりは結構深いなと思ってたんですけど、やはり鹿踊というのが昔はその辺にもあったんでしょうか?

小:
ありましたよ。元々鹿踊っていうのは仙台から来たんです。牡鹿半島ももちろん通ってきたわけです。金華山に神鹿(しんろく)がいるとされていて、みんなで金華山に鹿を拝みに行きましょう、ということが行われていました。
ぼくがやっている舞川鹿子躍の発祥の地というのは南三陸の志津川(※金華山の北の方にある沿岸の街)っていうところなんですね。今回の震災で全部壊滅しました。そこには鹿踊の供養碑っていうのがある。でっかい石を建てるんですね。この辺の人たちは良く見るかもしれませんが、辻というか、十字路に行くと碑石がいっぱい並んでいるんですけど、その中に鹿踊の供養碑っていうのがたまに紛れ込んでるんです。それで、その志津川の供養碑には「一切この世に生きているものすべてを、踊りを持って供養する」って書いてあるんですね。草も木も動物も人も、亡くなったものをすべて供養するっていうことは、あの辺一帯はおそらく「神域」みたいなものだったんじゃないですかね。牡鹿半島っていうくらいだから鹿は必ずいたでしょうし、人間が入ってはいけない空間というのがすごいいっぱいあったんじゃないかなって思いますね。

田:
鹿って、福島とか栃木とかにもいるもんね。大和朝廷ががんがん攻めていってる中で、こういう動物的というか鹿的なというか、踊りは蝦夷の踊りだったんじゃないかって勝手に思っている。だって、動物が踊るってある意味だとタブーじゃん。

小:
そうですね。タブーですよ。普通はこういう動物の踊りを都の雅な方々が踊るってことは無いと思いますよ。東北の人は「蝦夷のやつらが踊っているから俺たちも踊ってみよう」ってなったんじゃないかな。

田:
牡鹿半島とか、そういう行きづらいところは、行きづらいからこそそういうのが残されてる。
鹿もいるし。

小:
そうですね。都の文化に平定されずに残った。

田:
そういえばさ、四国にも鹿踊ってないっけ?

小:
仙台の伊達政宗の息子だったかな、秀宗っていうのが愛媛の宇和島に国をもらって、その一行の中の一人が鹿踊をやってて。それで伝わった。でも東北の鹿踊は結構どぎついけど、四国の鹿踊ってすごく柔らかいんですよ。

田:
かわいいよね。

小:
夏屋のものになんとなく似てるんですけど、もっとかわいい。踊りも歌もゆるい。愛媛の瀬戸内海の風土が影響を与えていて、そういうかんじわかるなあって。