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岩手県盛岡市

小岩少年、鹿踊と出会う

小岩秀太郎:
小岩秀太郎です。
公益社団法人 全日本郷土芸能協会で働いています。肩書きとしては事務局次長になります。ただ、うちの協会には4人しかいないので、事務局次長っていうのは一番下のポストなんですけど。
郷土芸能とはその土地土地に住む一般の人たちが、お祭りとかで衣装を着たり、太鼓を叩いたりして、日常のより良いくらしを願ったり、祈ったりする芸能のことです。僕たちの協会は、その郷土芸能をやっている人たちが集まって、社団法人として法人化したものなんです。

何をする組織かというと、芸能団体同士のネットワーク組織として、情報の交換をしながら課題を解決します。例えば「太鼓をどこで買ったら良いのかわからない」と困っている芸能団体があれば、太鼓を作っているところの情報を共有したりします。芸能団体同士が話し合って課題を解決していくためのネットワーク作りの手助けをしています。または芸能大会とかフェスティバルとか、そういったイベントが開催される際に、こんな芸能が出たらいいんじゃないかなどの調査や提案をしたり、相談に乗ったり、そういうこともやっています。

全日本郷土芸能協会は、1970年の大阪万博の「お祭り広場」に出演した郷土芸能が集まった時にできた団体ですので、すごく古い団体なんですよね。そもそも郷土芸能は、何万という数の団体が土地土地にあるんですけど、土地に根付いているので「絶対その土地から出ちゃいけない」というような芸能団体がすごく多かったんです。でも1970年の大阪万博は、日本が戦争の影を払拭して、自分たちの郷土や郷土芸能を世界中の人に知ってもらいたいっていう風に思って、土地から外に出ようと活動を始めた芸能団体が、比較的多くなり始めた時期だったようです。

その頃に芸能団体同士の交流を促進しよう、ということで集まった人々が全日本郷土芸能協会を作ったんですけど、その頃に若かった人たちももう40年以上経ってますから、もう80歳とかになってしまっていて、僕はそのあたりの人を鼓舞していくような立ち位置だと思っています。

僕自身は、鹿踊(ししおどり)という、岩手県とか宮城県とかにある郷土芸能の演者であり伝承者だったので、最初はその鹿踊だけに興味を持っていたんです。それをきっかけに10年前に全日本郷土芸能協会に入りました。

鹿踊の興味を突き詰めていくうちに、僕の生まれ育ったふるさとでどうやって鹿踊が生まれたかを調べていきました。突然ポコっと生まれたわけではないですし、どうやって衣装がこうなったのか、どんな影響を受けてそうなったのか、いろいろ見ていかなくちゃいけないな、と思ったんですね。それでいろいろなことを調べていくうちに、自分がやっている鹿踊の、例えば衣装に関していうと、「あ、これと似ている」「この衣装と近い」という風に知ることができて、何百km離れた土地に似たような衣装や踊りがあったりとか、本当に同じかどうかはわからないけど、なんとなく共通点を見つけたりとか。そういうことを続けていくうちに日本の多種多様な芸能を知ることになって。

僕は岩手県の一関市の舞川という、まあ山奥なんですけど、そこの生まれで、その土地に根付いていた「舞川鹿子躍(まいかわししおどり)」という踊りをやっています。生まれた時からずっとやっていたとかいうことではなくって、小学校4年か5年の時に初めて鹿踊を見る機会があったんです。もう25年前くらいですね。
それは小学校のイベントだったんですけど、その時に「鹿踊をやってみよう」という会が学校で発足して。小学4年生から6年生までの全員が鹿踊を教わることになりました。その時に、自分も教えて欲しいという中学生が来たり、教えてくれる師匠というか、人知れずずっと踊っていたお年寄りの人が来たり。学校の先生や親御さんも協力してくれて集まることになったんです。

そういうきっかけで、4年生か5年生かの頃に、まあ無理矢理に習わされたわけです。学校の友達の間では、伝統芸能とか民俗芸能ってなんとなく「年寄りがやっているもの」、という雰囲気があって。なんとなく、みんな「ちょっと嫌だな」って思っていたような気がします。やっぱりドッジボールとかバスケとかの方が楽しいやっていう。でも僕はなんかちょっと変だったのか、すごく興味を持ったんですよね。
鹿踊の面に、鹿の角がこう付いているじゃないですか……男としては、鹿角に興味もたねえやつはちょっとおかしいぞって思って。鹿角を見て「やりたい!」って思って、一人で踊ってたんですよね。みんなが嫌だ嫌だ言っていても一人で一生懸命踊り続けてて、今でも辞めずにずっとやってきてる、そんなかんじですね。

やっぱり最初はビジュアルでしたね。一人の師匠が装束をつけて、鹿頭をつけて、背中に長い「ささら」っていうんですけど、竹でできた3メートルくらいのやつを背負ってたんですよね。それで太鼓をガンガン叩いていた。
その姿って、それまで見たことなかったし、テレビの世界にもないものだったし、それが自分の地元で、こんな怪獣的なものがあるっていうのに、激しく感動しました。

その最初に鹿踊に触れた小学生のイベントの衣装は、全部手作りの衣装だったんですよ。僕は師匠と同じものを着たいんだけど、太鼓とかも畑に撒くビニールの肥料袋を貼ったものでベコベコだったり、鹿角とかもベニヤで作ったものだったり。あんまり覚えてませんが、多分すごくがっかりしたんじゃないかな、と思うんですよね。だけど、それを通らないと本物の衣装は着れないから、中学生になるまで我慢かなという風に思って。
実際に、中学生になった時に初めて衣装を着ることができて。感想は、うん、重たかった。ささらも太鼓もつけると15キロくらいになるんですね。それもあって、その頃から、その15キロをつけたままで、身体の身のこなしをどうやってつくっていくかというのを自然と考えるようになりました。うちの舞川鹿子躍は、「踊」じゃなくて「躍」って書くんですね。鹿の子どもの跳躍で、鹿子躍。跳躍にすごいポイントを置いている踊りだということが、師匠の誇りだったんです。だから、そこをなんとか伝承していかなくちゃいけない、って思っていて。例えばジャンプに力を入れる、みたいなことをずっとやってきたんです。